この日を忘れることはできません。
2011 年 3 月 11 日。
東日本大震災が発生した日です。
あれから 8 年が経過しましたが、
私の当時の記憶にはまだ鮮明に
残っています。
今更ではありますが、
当時のメモを発見しましたので、
当日・翌日の行動を思い出しながら
書いてみたいと思います。
当時の身分は
私はいわゆるサラリーマン。
都内某所某 IT 系企業にて
勤務中に被災しました。
この日まではなんの疑問もなく
この先も同じ身分で行くんだろうなぁ。
と思っておりました。
発生時
私はオフィスビルの 6 階にいました。
このビルは地上 28 階建ての高さが
あります。
14: 46 頃、地震発生。
いつもの地震とは様子が違って
揺れが長らく続き不安を覚えた
記憶があります。
高層ビルが林立する地域でしたので
窓の外では隣のビルの揺れる様が
尋常ではない揺れを実感させました。
遠くでは火災も
揺れが収まってしばらくしたころ
遠くで煙が上がりました。
東京湾沿いのどこかの施設で火災が
発生したようです。
情報収集開始
ただ事ではないと思い、
スマホにて情報収集開始。
回りでもすでに仕事モードではなく、
スマホでテレビ放送を見たり
ラジオを聞いたりする中、
私はというとすでに Twitter を始めていたので
皆さんの Tweet を追って
情報収集に励みます。
交通網はマヒ
情報によると
首都圏の鉄道はすべて運転見合わせ。
特に私の帰宅手段である JR は
復旧の目処立たずということで、
私はなかば諦めの境地に。
会社で一晩
その後も情報収集に努めましたが、
結局この日は JR 終日運休決定。
急いで帰宅しようとした人たちは
駅にさえ入れない状況という
情報を入手できていましたので
会社にて一晩を過ごす決意。
私の職場のあるビルでは
こういうときのために食料の備蓄が
あるようで、ビル内に留まった人たちには
おにぎり、お新香とカンパンの
支給があり、飢えを凌ぐことができました。
責任者退社……
そんな中でまず復旧したのは地下鉄。
自宅まで割と近くの人たちは
地下鉄を利用して帰宅できそうと
判断し、帰りはじめました。
我が部署の上司もその報を受け、
「よろしく」と告げて家路につきました。
会社にいてもやることはないのですが、
このときばかりはこの上司を
もはや信頼できないな。
と思いつつ、この時、当時の会社に
貢献する気持ちを失いました。
翌朝まで勤務
当時の職場は IT 系のヘルプデスク。
24 時間体制で動いているのですが、
私達は早番、遅番はありますが、
深夜帯は別の企業の担当者が
その任につくという体制。
ですが、その担当も
職場にたどり着けないということで、
そのまま交代で仮眠をとりつつ
夜を通して働くことになりました。
帰宅
使えない JR
翌朝。
7 時頃 JRが動き出すという
情報を得て会社最寄りの新橋駅へ。
この情報はガセだったようで、
そのまま動いていた銀座線に
乗車し浅草へ。
8 時頃到着。
延々と歩きで
ここからは都バスで
金町を目指すもやってくるバスは
どれも満員。
運転士より「京成線が動き始めた」
との情報を得たので
さらに押上まで歩くことに。
この途上、「ゆで太郎」が
営業していたので朝食。
この前後で吉野家、
マクドナルドを発見するも
食材なしとのことで休業。
食事にありつけただけでも
ありがたかったですね。。
押上に近づくと間もなく
開業となるスカイツリーが。
あの揺れに耐えたんですね。。
駅に入れず……
10 時頃、押上駅に到着。
改札へ行くも入場規制中。
列が動く気配がありません。
このままでは埒があかないぁと
いうことで自宅へ向かって
さらに歩くことに。
金町まで行けば自宅まで
JR or バス路線があるのでそこを目的地に。
大渋滞の国道 6 号を横目に
辛抱強く歩きます。
地震発生後、首都高や
高速道路は軒並み通行止め。
そのせいで車道の列はピクリとも動かず。
歩いた方が間違いなく早かったというのも
まさにこの時が最初で最後でしょう。
東武バス
12時頃、金町着。
JR 常磐線は動いていましたが、
自宅最寄りの武蔵野線は運休。
ということでバスに乗車。
このバスも相当の混雑でしたが、
なんとか乗ることができました。
が、三郷駅に近づいた頃、
大渋滞につかまります。
しばらく動く気配がないので
下車して駅まで歩きます。
13:30 頃三郷駅着。
駅前の日高屋でランチ。
私の 3 人あとくらいに
入ったお客さんは
「食材なし」ということで
追い返されていました。。。
武蔵野線復活
14:30 頃、復旧していた武蔵野線に乗って
自宅最寄り駅へ。
そこから歩いて自宅にたどり
着いたのは 14:45 頃。
部屋ではあらゆるものが
散乱していましたが、
とりあえず寝床を確保して
泥のように眠りました。。
スキーは中止
ところで、震災が起こったのは金曜日。
翌日(すなわち帰宅した日)より
一泊で猪苗代へスキーに行く予定でしたが、
こんな状況ではもちろん動けるはずもなく。
帰宅途中に歩きながら宿泊先に
電話してキャンセルの報告をすると
「ご無事で良かったです。もちろんキャンセル料は
いただきません。」
というありがたいお返事が。
私なんかよりひどい状況に
あったと思われるだけに
このご配慮は本当に敬服する限り。
これがいまでも
猪苗代に通う理由の一つです。
最後に
この震災、それ以外の大規模災害などで
被害を受けた方に心よりお見舞いを
申し上げるとともに、
犠牲となられた方に謹んで哀悼の意を表します。
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